【デイリー・コリア・フォーカス】26年5月12日号

皆さま、アンニョンハセヨ。
5月12日、火曜日です。今日はずいぶん良い天気でした。洗濯物はためく金浦から「デイリー・コリア・フォーカス」をお送りいたします。
1. 問題を再定義する力、季刊三千里の教え
突然ですが『季刊三千里』という雑誌をご存知でしょうか。1975年2月から1987年5月まで50号にわたって発刊されたものです。在日コリアン(ここでは在日朝鮮人)の錚々たる知識人が編集や執筆を担当し、一時代を築きました。
ふとした(とてもありがたい)きっかけからこの、『季刊三千里』のファイルをいただきました。何気なく開いてみたところ、止まらなくなり、今日の仕事をすべて放りなげてこの時間(午後5時半)まで読んでいました。困りました。

『季刊三千里』創刊号の表紙。
その「創刊のことば」にはこうあります。全文を引用してみます。
朝鮮をさして、「三千里錦繍江山」ともいう。「麗しい山河の朝鮮」という意味である。雑誌『季刊三千里』には、朝鮮民族の念願である統一の基本方向をしめした一九七二年の「七・四」共同声明にのっとった「統一された朝鮮」を実現するための切実な願いがこめられている。
一衣帯水の関係にあるといわれながらも、朝鮮と日本とはまだ「近くて遠い国」の関係にある。われわれは、朝鮮と日本との間の複雑によじれた糸を解きほぐし、相互間の理解と連帯をはかるための一つの橋を架けて行きたい。
このような願いを実現するために、在日同胞の文学者や研究者たちとの輪をひろげていくつもりである。また、日本の多くの文学者や研究者とのきずなをつよめて行きたい。さらに、われわれは読者の声を尊重し、それを本誌に反映させるつもりである。
これまでの経験にてらして、われわれにはさまざまな困難が予想される。しかし、それを乗り越えて、われわれはその願いを実現して行くであろう。
1975年、つまり、今から約50年前に書かれたものですが、その問題意識は今なお有効であると言わざるを得ないでしょう。とても残念なことです。
そればかりか、状況は50年前よりも悪化しています。
朝鮮民主主義人民共和国では「三千里」という言葉を、国歌(愛国歌)から削除し、公的な文書や教科書で使わないように決めました。統一を連想させるためです。
また、今年3月に改正した憲法からは、祖国統一という文言がなくなりました。
『季刊三千里』創刊のことばに引用されている、1972年の「七・四宣言」でうたわれた「自主・平和(統一)・民族大団結」のスローガンも、やはり削除されています。
いずれも、今年2月の朝鮮労働党第9会党大会において、「韓国との関係を最も敵対的な国家対国家の関係として定立」し、「韓国を同族という範疇から永遠に排除」した、金正恩朝鮮労働党総書記の路線に基づくものです。
なお、党規約の全文は公開されていませんが、この部分が反映されているだろうというのが、韓国の専門家による一般的な見方です。
23年12月に金正恩氏が初めて明かしたこの路線は、約2年半の間に、党と国家の重要文書における明文化という形で定着することとなりました。
こんな北側の先制的な状況を前に、韓国では喧々諤々の議論が起きています。
議論の争点はひと言で、「北側が掲げる敵対的国家関係ではない、平和的国家関係の構築」という新路線と、「潜在的な平和吸収統一を目指す」という既存路線を維持する主張の対立です。
韓国は1980年代末の冷戦終結後から、一貫して後者の政策を維持してきましたが、その転換期に来ているのです。結論は簡単に出ないでしょう。
ひとつ言えるのは、常に政治が民族を圧倒してきた南北朝鮮の分断80年史は、形を変えながら今なお続いているということです。
これについては別途書いていくこととして、『季刊三千里』の話に戻ります。

『季刊三千里』創刊号の巻頭対談。
1975年の創刊号の巻頭特集には、金達寿(キム・ダルス、1919~1997)と鶴見俊輔(1922~2015)の対談が掲載されています。
当時まだ獄中にあった、『五族』で知られる韓国の抵抗詩人・金芝河(キム・ジハ、1941~2022)氏と韓国の民主化運動をめぐる内容でしたが、そこにこんな一節が出てきます。やはり該当部分を引用してみます。かなづかいなどは誌面のままです。
鶴見:金芝河氏についても、池学淳(チ・ハクスン、1921~1993。民主化運動や人権運動、労働運動など社会発展に尽力したカトリックの神父)氏についても、立派な詩人、立派な宗教家だ、という感じをもった。
「詩人」にしても「宗教家」「神父」にしても手垢のついた概念です。その手垢のついた概念を洗いだすだけの個人としての存在感をもった人だと感じました。個人がどんなに手垢のついた概念でも再定義する力を持っている、ということですね。
日本では何でも手垢のついたものはぽこっと捨てればいい、さっさと捨てるかというのがあるでしょう。何でも捨てちゃうという考えがテレビのコマーシャルの世界や商品の世界でも出ているわけだけれども、概念の世界でも同じなんですね。「民主主義」、そんなかびのはえているものはなんだ、戦後民主主義は死んだ、という話になってきて、だいたいみな何でも死んでしまうんだ。そんなに速くなにがみな死なせてしまうのか、何が生きるのか。人間というものは要するに古いんで死んでしまえばいい、となっちゃえばそれで終わりですね。どんなに新しいものでも手垢は簡単につけることができるので、何でも使い捨てるというのでしたら終りですよ。
どんなに手垢のついた概念でも、たとえば「人間」という概念にしても、「善悪」という概念でも古いもんですよね。そういうものの垢を洗い落とすような生き方をわれわれはできるし、そういう生き方をした人間がいた、ということを証言できるという感じがするのです。(後略)
この文章の中にある「手垢のついた概念を洗いだす」という一節を読んだときには戦慄が走りました。いま求められているのがまさに、民族や統一という、死んでしまったかのような手垢のついた概念を洗いだすことだからです。
同じ対談の中で金達寿はこれを「問題を再定義する力」と表現しています。まさにその仕事が今後、コリア・フォーカスの中心となっていくことでしょう。
それにしてもこのファイルは危険です。ずっと読み続けてしまいます。1987年の「終刊のことば」もいずれ紹介したいと思います。
2. 今日の時事韓国語「단팥빵」
「タンパッパン」と読みます。日本語のあんぱんです。「단팥タンパッ」はあんこ、「빵パン」はパンです。
9日付けの日刊紙「韓国日報」に『あんぱん五つを盗んだお婆さんの事情…「病気の夫に食べさせたかった」』という記事が掲載されました。
今年4月、ソウルをぐるっと囲む韓国最大の自治体・京畿道(キョンギド)高陽(コヤン)市のパン屋で、80歳の女性Aさんが、あんぱん五つを盗み、警察に捕まったそうです。
警察の調査でAさんは、「夫が好きなあんぱんを食べさせたかった」と証言しました。Aさんは基礎生活受給者で、20年間、持病のある夫を一人で介護してきたとのこと。基礎生活受給者というのは、日本でいう生活保護受給者のことです。
この事情を聞いた警察は、処罰ではなくAさんの生活を支援する選択をしました。
まず「軽微犯罪審査委員会」に事件を回付し、Aさんを即決審判の対象としました。
同紙によると即決審判というのは「軽微な犯罪について正式な刑事裁判の代わりに簡易な手続きで処理する制度」とのこと。
関連法を調べたところ、管轄する警察署長が同地域の裁判所に申請するもので、裁判所は被告に対し「20万ウォン(約2万2千円)以下の罰金、拘留または科料に処すことができる」ということです。申請後すぐに判断する義務があるとのこと。
記事によると、こうして事件を早急に解決した警察はその後、Aさんの自宅と管轄する行政福祉センター(役場)を訪問し、Aさんが自治体の緊急生活費支援を受けられるよう、つないだそうです。
記事は警察のこんなコメントで締められていました。
「犯罪に対しては原則通りに対応しながらも、生計型の犯罪や社会的な弱者の苦しみまで無視してはいけないと判断した。これからも社会的な弱者たちが危機状況で必要な支援を受けられるよう、細やかに調べていく」
実際にすべての現場でこういった温情主義がある訳ではないかもしれません。他方、この記事を読みながら、日本でも同じような犯罪で実名報道される場合があることを思い出しました。
今日はここまでです。
記事が溜まっていきますが、今日は仕方ありません。
明日以降、また頑張ります。
それではアンニョンヒケセヨ。お読みいただきありがとうございます。(徐台教)
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