【デイリー・コリア・フォーカス】26年7月21日号

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徐台教 2026.07.21
誰でも

皆さま、アンニョンハセヨ。

今日は7月21日、火曜日です。もうすぐ日が変わってしまう前に、今日のニュースレターをお届けします。

本来でしたら、昨日お伝えしたように呂運亨(ヨ・ウニョン)79周忌の追慕式の記事に加え、いくつかのトピックを合わせて送るつもりでした。しかし、記事の執筆に時間がかかってしまい、呂運亨関連の記事を送り、本日のニュースレターに変えさせていただきます。

なお、この記事は明日(22日)、写真や動画を加えてYahoo!ニュースに改めて配信いたします。つまり完成版ではないのですが、毎日配信という約束は守りたい一心からお送りする次第です。

***

傑物・呂運亨の79周忌…韓国のベテラン政治家が追慕式で日本に求めたこととは

1947年7月19日午後1時15分、ソウル市内、恵化洞ロータリーに3発の銃声が響き渡った。米国製の車両のリアガラスを突き破った銃弾は、後部座席に座る男性の背中を貫いた。

撃たれたのは、呂運亨(ヨ・ウニョン)。62歳。

米軍政下の南朝鮮で随一の人気を集め、新たな国家の指導者として期待された政治家だ。その人気から、わずか2年の間に11度の暗殺が企てられるも、間一髪でこの日まで生き延びてきた。

その彼が、ついに凶弾に斃れたのだった。撃ったのは19歳の少年。背後に誰がいたのかは今なお正確には分かっていない。

それから79年。この日午前11時、ソウル市江北(カンブク)区にある呂運亨の墓地では、追慕式が行われた。

前日までの梅雨空を打ち消すようなぎらつく陽の光からは、夢陽(モンヤン)という呂運亨の号が思い浮かんだ。母が呂運亨を孕む際に、太陽を抱く夢(胎夢)を見た事から由来するものだ。

●朝鮮民族、20世紀最大の政治家の一人

呂運亨は1886年4月22日(陰暦)に京畿道(キョンギド)楊平(ヤンピョン)郡に生まれた。

当時は朝鮮王朝末期。祖父とその弟は早くから「東学思想」に触れ、これを広めた開明的な人物だった。呂運亨もまた、15歳からソウルに移り新学問に触れて育った。

1910年、大日本帝国が大韓帝国を併合したことは、呂運亨の人生に大きな影響を与えた。中国、日本、ソ連、そしてソウルと舞台を移しながら、休まず独立運動を続けることになる。

1919年4月に上海で樹立された大韓民国臨時政府に深く関わり、同年11月には日本を訪れ東京帝国ホテルで「独立運動の真理を伝える」会見を行った。その後、中国で中国独立運動に関わるなどアジアの民族指導者としても活動する。1929年に上海で日本警察に逮捕され、日本を経て朝鮮半島に移送、1932年まで獄中生活を送った。

その後はソウルを中心に朝鮮独立運動を続けた。1933年から「朝鮮中央日報」社長として、言論・文化の発展に大きく寄与する。

1936年ベルリン五輪で朝鮮人マラソンランナー孫基禎(ソン・ギジョン)が優勝した際には、孫の胸の日章旗を消した写真を報じた。社長・呂運亨の追放を求める朝鮮総督府に抵抗し、同紙は廃刊を選んでいる。

さらに日本の敗戦が濃厚になる1944年からは、地下組織・建国同盟を組織し解放後に備えた。

ここまでざっと足跡をなぞるだけでも、その活動の幅広さと勤勉さに驚くが、その真価は「光復」つまり大日本帝国からの解放後に発揮される。

***

朝鮮半島は解放後すぐ、米ソにより北緯38度線で南北に分割される。1945年8月のこの出来事はすべての朝鮮人にとって、文字通り青天の霹靂であった。

さらに、同年12月にはモスクワ三相(米ソ英)会議により、朝鮮半島の信託統治が決定され、これに対する賛成(賛託)・反対(反託)意見で社会は真っ二つに割れた。

当時の理想の姿は当然、「統一した独立国家」であった。しかし、朝鮮民族がこれを実現するにあたり、国際社会そして南北それぞれの社会において、果てしない困難が待ち受けていた。

これに正面から立ち向かったのが呂運亨だった。

南朝鮮においては左派と右派の力を合わせる左右合作、朝鮮半島全体では別の道に進もうとする南北朝鮮を結びつける南北連合、さらに朝鮮半島を分割した米ソとの協力という、理想の路線を追求したのだった。

穏健な社会主義者でありながら、何よりも民族内の分断を防ごうとした呂運亨の政治活動は、中道派(中間派)という言葉で表現される。

この路線を韓国の専門家である鄭秉峻(チョン・ビョンジュン)梨花女子大学教授は「韓国の現代社会において、最も理想主義的で最も非現実的な路線」と評価する(拙著『分断八〇年 韓国民主主義と南北統一の限界』より再引用)。

呂運亨は1945年11月に行われた世論調査で、「朝鮮を導く指導者」、「日帝時代における最高の革命家」として人気1位に選ばれていた。

だが、当代のスター政治家のこんな「開かれた姿勢」は、権力を独占したい多くの政治勢力から疎まれる原因となった。最も理想的であった故に、政治的には最も不利だったのである。だからこそ実に11度も暗殺の対象となり、12度目に命を落としたのだった。

呂運亨の暗殺から約一年後の1948年8月15日に大韓民国政府が、同9月9日に朝鮮民主主義人民共和国政府が樹立することとなる。この分断は今なお続いている。

「統一した独立国家」という理想を追い求めた呂運亨。彼こそが「解放空間」と呼ばれる、朝鮮半島の現代史を決定づけた1945年8月から1948年8月までの3年間の、挑戦と挫折を象徴する人物であった。

なお、呂運亨の葬儀は国民葬として行われ市民60万人がその死を悼んだ。

●青年への信頼、そして政治的包容力

ここまで呂運亨の足跡を追ってきたが、この日の追慕式で次々に述べられた追悼辞からは、この稀代の政治家の価値が改めて立ち上ってくるようだった。

例えば、呂運亨記念事業会のキム・テイル会長(前・チャンアン大学総長)は「夢陽の青年精神を考える」とし、青年をキーワードに呂運亨と現在をつないだ。

「呂運亨が活動していた時代、朝鮮の青年を絶望の中で生きていた。植民地の青年にとって、明日は遠く、希望は小さかった」としながら、この青年の姿を「就職は難しく、マイホーム購入からは遠ざかり、結婚と出産が選択ではなく放棄するものとなっている」現代のそれと重ねたのだった。

さらに、「朝鮮の希望は青年にある」とした呂運亨の言葉を引用し、「彼は青年を訪ね、青年を組織し、青年に勉学をすすめ、世界を見るようにし、何よりも自らが歴史の主人になるようにさとした。夢陽は青年を慰めるのではなく、青年を信じた」と、その姿勢を強調した。

(キムテイル写真)

実際に呂運亨は、ある時には独立運動家として、またある時には学校の先生として、さらに時にスポーツマンとして、多くの青年と交流を重ねた。先のマラソンランナー孫基禎もその一人だ。

キム会長は、「青年が歴史の主人として堂々と生きていく国を作ることこそが、夢陽を最も深く追慕する事」とし、「夢陽が青年を信じたように、私たちが青年を信じる番」であるとした。

キム会長の一連の発言は、「青年が大事」と事あるごとに語りながらも、実際には青年を周縁に追いやり、既存世代への順応を求める韓国の現代政治に一石を投じるものであったと言えるだろう。

一方、呂運亨の弟で、やはり政治家だった呂運弘(ヨ・ウノン、1891~1973)の孫・呂寅成(ヨ・インソン)呂運亨遺族会会長は、呂運亨の政治的な姿勢の重要性を取り上げた。

同会長はまず、「韓国社会は依然として陣営に分かれ、互いを理解するよりも疑い、対話するよりも排斥し、考えが異なるという理由だけで相手を敵と規定することに慣れてしまった」と切り出した。

次いで、「もし呂運亨が今の時代に生きていたらどうするだろうか」と問いかけた。

そしてこれに答える過程で、呂運亨の政治的な姿勢を振り返った。

「誰かに勝とうとする政治や、誰かを倒そうとする政治ではなく、テロの危険が押し寄せる中でも諦めず、人と人をつなぐ政治を諦めなかった」とし、「最後まで人を失わない政治を続けた。理念よりも民族を、権力よりも国民を先に考え、葛藤よりも和解を、対立よりも対話を選択した」というものだ。

さらに保守・進歩陣営に分かれ激しく争う現代韓国の政治地形を念頭に、「異なる考えを尊重しているか。相手を説得しようとする前に、理解しようとしているか。国民すべての道よりも、自陣営の道だけを考えてはいまいか」と問題意識を投げ掛けた。

その上で、「今の時代に必要なのは、より大きな声ではなく、より広い心であり、過度の力ではなく、相手を理解しようとする勇気である。これこそが、夢陽先生が私たちに示した統合と融和の精神であり、今日私たちが再び心に刻むべき時代精神である」と強調した。

「青年」と「対話」はいずれも現在の韓国社会における重要なキーワードである。呂運亨の背中を今なお、多くのことを語っている。

●「朝鮮と対話を」日本への注文

最後に、同会の名誉理事長を務める李富栄(イ・ブヨン)さんの発言を紹介したい。

元「東亜日報」記者で、1987年6月の民主化抗争の際に、獄中からソウル大生・朴鐘哲(パク・ジョンチョル)拷問死の真相を伝えたことで知られる人物だ。その後、国会議員を三期務めるなど、懐の深い政治家として定評がある。

同氏はまず、分断から80年が経つ今、超大国の米国も以前のようではないとし、「韓半島だけではなく、全世界が新たな局面を迎えている。私たちを縛っていた鎖が緩んでいる」と指摘した。

そして、日本と米国の役割を強調した。

1991年に南北が国連に同時加入した際、日本と米国が朝鮮民主主義人民共和国を国家して承認(いわゆる「クロス承認」)していれば、「朝鮮(北朝鮮)」の核開発はなかっただろうと指摘。

だからこそ今、日本と米国が朝鮮と対話すべきとつなげたのだった。これにより、朝鮮半島の軍事的な緊張は低下するとも付け加えた。

続いて「呂運亨が生きていたならば『南北の平和共存』を訴えただろう」とし、南北は互いに代表部を交換しながら、光復(解放)から100年が過ぎた2050年頃を目処に、国連でも一つの国として加入する未来を説いたのだった。

さらに李富栄氏は「私たちは一生懸命想像しなければならない。今すぐ統一できないと落胆する必要はない。一生懸命統一に向けて一歩一歩進んで行くべきだ」と語気を強めた。

●今の朝鮮半島にこそ必要な政治家

長々と見てきたが、呂運亨の多角的な視点がうまく伝わっただろうか。

韓国で知らない者はいない哲学者・金容沃(キム・ヨンオク)氏は、昨年出版した呂運亨に関する書籍の中でこう書いている。

呂運亨ひとりを正しく理解することは、現代史を正しく知ることだ。その現代史は数多くの概念で構成されているが、呂運亨と共に呼吸するとき、その概念は私の人生の中に融解し入ってくる。

私たちの現代史を理解する上で、夢陽ほど簡単な方便はないだろう。夢陽は「開かれた地平 open horizon」の上に実存するからだ。夢陽の人生は閉じていない。あらゆる理念の意味を公平に具現する。

夢陽は私たちが現代的な生活を通じ出会うことができる、あらゆる覚、悟り(Enlightment)の総和である。

『새 시대의 새 지도자 몽양 여운형(新たな時代の新たな指導者 夢陽呂運亨)』トンナム、2025年、未邦訳

いささか大げさに映るかもしれないが、苛烈な独立運動を行いながらも、スポーツや文化、世代の交流を楽しみ、解放後には最も危険な道へと突っ込んでいった呂運亨の姿は、今なお多くのイマジネーションをかき立てるということだろう。

金容沃氏の表現、さらに追慕式で言及された内容からは、今の韓国や朝鮮半島において呂運亨的な姿勢が持つ意味が浮かび上がってくる。そのチャレンジは失敗に終わったが、新たな可能性をもたらしているのだ。

この日の追慕式の様子は、マスメディアでは全く報じられなかった。

来年は没後80年となる。70周忌の際には比較的大きな追慕式が行われたこともあり、関係者は「立派な80周忌を」と意気込む。しかし、重要なのはイベントの規模ではなく、その政治的な路線がいかに韓国内で再評価され、実行されるかであろう。そうなることを望んで止まない。

***

ここまでです。

校正と加筆の上、改めて配信します。今日はちょっと本調子ではありません。

連日のお願いで恐縮ですが、クラウドファンディングもいよいよ終盤です。最後までよろしくお願いいたします。

それではアンニョンヒケセヨ。ありがとうございます。(徐台教)

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