『梨泰院惨事』一周忌の悲しみと怒り、待った無しの年金改革、変わる尹錫悦など8トピック|第11号

韓国社会・韓国政治を扱う今号では、第9号に続き『梨泰院惨事』一周忌について触れると共に、尹錫悦大統領の「変化の兆し」などを取り上げました。
徐台教(ソ・テギョ) 2023.11.01
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(10月31日)サポートメンバー(有料会員)の皆さん、アンニョンハセヨ。

ニュースレター第11号をお届けいたします。今号は韓国社会・韓国政治をテーマにお届けします。韓国社会ではやはり『梨泰院惨事』がトップニュースとなっています。安全への歩みが鈍い社会について、多くの人が失望し、怒りを覚えています。そんな空気を感じてか、尹錫悦大統領もこれまでの一方的な政治を改めるようなポーズを見せています。詳しく解説しました。

今号の目次は以下の通りです。

  • 韓国社会(1):『梨泰院惨事』一周忌、政府の冷淡さと溜まる怒り

  • 韓国社会(2):待ったなしの「年金改革」、政府は意志を示すも中身はまだ見えず

  • 韓国政治(1):『梨泰院惨事』の遺族よりも朴槿惠?尹錫悦の選択

  • 韓国政治(2):変わる尹錫悦?李在明と握手、歓談も

  • ショートニュース:金浦市を「ソウル市金浦区」に?/出所後も性犯罪者を隔離して管理?法務部が新法案を立法予告/トコジラミ(南京虫)が韓国各地に出没

  • あとがきに代えて:韓国ジャーナリズムの「熱」

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◎韓国社会(1):『梨泰院惨事』一周忌、政府の冷淡さと溜まる怒り

 ここ一週間で最も大きなニュースとしては、昨年10月29日にソウル梨泰院(イテウォン)で起きた雑踏事故の一周忌がありました。

 生存者の自死を含め159人に上る犠牲者を悼む動きが韓国各地で起こると同時に、韓国社会はその後安全になったのか?という問題がメディアを通じ提起されました。

 しかし現状は芳しくないようです。

 『東亜日報』によると、政府が今年1月発表した「国家安全システム改編総合対策」の履行率は21.6%に過ぎないといいます。中央日報では専門家のチェックを通じ13.4%とさらに低い数値を提示しています。いずれにせよほとんど変わっていないということです。

 また、梨泰院の事故の一因とされる「主催者が存在しないイベントにおける行政による安全管理義務の不在」を変えるための『災害安全法改正案』も、未だ国会に係留されたままです。

 一方で、第9号(24日)のニュースレターでお送りしたように、特別法が制定されていない上に、区庁や警察といった関連機関は責任逃れに汲々としている有様に変わりはありません。

 容疑者・被疑者23人のうち18人が起訴されましたが、現時点で判決が出た者はいません。

 梨泰院が所属する自治体・龍山(ヨンサン)区の区長、安全災難課長、龍山警察署長、ソウル警察庁長の4人は業務上過失致死で裁判が行われており、裁判の帰趨が注目されていますが、一審判決は来年に持ち越されると報じられています。

事故現場の路地。10月29日、筆者撮影。

事故現場の路地。10月29日、筆者撮影。

路地の入り口には沢山のメッセージとお供え物がありました。10月29日、筆者撮影。

路地の入り口には沢山のメッセージとお供え物がありました。10月29日、筆者撮影。

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 しかし改めて問題だと感じるのが、政権の高官たちが誰一人として辞任していないことです。

 国民の安全に責任を持つ李祥敏(イ・サンミン)行政安全部長官は、弾劾決議案が可決されたものの憲法裁判所により棄却され、業務に復帰しています。国務総理もそのままです。

 ちなみに、2014年4月16日に起き304人が亡くなったセウォル号沈没事件の際には、事故から11日目の4月27日に当時の鄭烘原(チョン・ホンウォン)総理が辞任しています。

 尹政権の冷淡な態度は辞任者がいないというこの一件で説明が終わってしまいます。

 上司がこれだから、下の者も責任を取らなくなります。例えば、パク・ヒヨン龍山区庁は取り調べの過程で「私は神でないので、事故を予測できなかった」と言い放っています。

 一事が万事で、ソウル市の対応も後手後手です。

 一周忌を3日後に控えた26日になって、事故現場の路地にようやく事故現場であることを示すパネルが設置され『10.29記憶と安全の道、OCTOBER 29 MEMORIAL ALLEY』と刻まれたパネルが路地の上下にはめ込まれました。これもメディアの報道や遺族を含む市民団体の度重なる指摘を経て、ソウル市が重い腰をあげて行われたのです。

 その最たるものは尹錫悦大統領でした。ついに遺族に向き合うこのないまま一周忌を迎えました。

 それでも最後の機会とばかりに、遺族と市民団体は29日の午後5時からソウル市庁前の広場で行われる一周忌集会に、尹大統領を招待しました。しかし尹大統領は出席を拒否。理由は「野党が参加する政治集会だから」というものでした。

 そして当てつけのように小学生の頃に通っていたソウル城北区の教会のミサに参加し「昨年の今日は、人生で最も悲しい日でした」という追悼辞を、事故の責任を取らない李祥敏長官らの前で読み上げました。遺族はその場に誰一人いませんでした。

事故現場の路地にはめ込まれたプレート。10月29日、筆者撮影。

事故現場の路地にはめ込まれたプレート。10月29日、筆者撮影。

街のあちこちには「星たちを記憶します」と書かれたポスターが貼られていました。10月29日、筆者撮影。

街のあちこちには「星たちを記憶します」と書かれたポスターが貼られていました。10月29日、筆者撮影。

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 こうした尹政権の態度に対して、批判的な世論が優勢です。

 進歩紙はもちろん、保守紙『東亜日報』でも30日付けの社説で「大統領や総理、与党代表が追悼の意を表したが、追悼集会に参加しなかったのは残念だ」と指摘しました。

 ちなみに、与党の革新委員長に就任したイン・ヨハン氏が追悼集会に参加しましたが、あくまで「個人として」の参加でした。

 尹大統領の不参加や与野党の足並みが揃わないことの責任を「政治・政争のせい」に求める議論もあります。野党が尹政権を攻撃する材料として梨泰院事故を利用しているという論理です。

 こうした側面があることは確かです。法案が立法府である国会で止まるというのは、いかに言い訳をしても議員の怠慢であり、政治の機能停止を表しているからです。

 日本のNHKにあたる公営放送『KBS』は30日の記事で「梨泰院惨事に関連する39法案のうち1つだけ国会を通過した」と指摘しました。正確には、立法の趣旨に「梨泰院惨事」を挙げているものが39あるというもので、重複する内容を含んだ法案もカウントされています。

 一方で『10.29梨泰院惨事被害者の権利保障と再発防止のための特別法案(通称:梨泰院特別法)は、「迅速処理法案」として指定され、来年2月までには成立する見通しです。

 私がニュースレターで怒りを表明してもしょうがないのですが、尹政権はあまりにも冷淡です。

 一周忌の前日、安全点検という名目で事故現場を訪れた李祥敏行政安全部長官は帯同した龍山区庁や消防、警察関係者に対し「一度、砲弾が落ちたところには再び砲弾が落ちないと言うので、この場所にだけこだわるのではなく、他の危険な要素も管理するように」と発言しました(オーマイニュースなど)。

 耳を疑う発言だと思いませんか?

 判事出身の李長官は尹大統領の大学・高校の後輩でもあり、近い仲とされます。もう一度言いますが、行政安全部長官は、国民の安全に責任を持つ職責があります。

 政権中枢にいる高官のこんな人を食った態度は、尹大統領が事件直後から素直に謝罪しなかったことに端を発していると考える他にありません。韓国で大統領の影響力は絶大です。尹氏が遺族と手を取り合い、再発防止を約束し、政権の次元でしかるべき責任を取れば済んだ話です。

 こんな社会的な「当たり前のこと」をしなかったしっぺ返しを、与党や尹大統領はいずれ受けることになるでしょう。

ソウル市庁前広場で行われた集会。数千人が参加しました。10月29日、筆者撮影。

ソウル市庁前広場で行われた集会。数千人が参加しました。10月29日、筆者撮影。

ソウル市庁前広場の献花台にはひっきりなしに市民が訪れていました。

ソウル市庁前広場の献花台にはひっきりなしに市民が訪れていました。

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 ソウル市庁前での集会に先立つ午後2時からは、梨泰院の事故現場で追悼集会が行われ、私も4年生の娘と一緒に参加しました。

 韓国の4つの主要宗教(仏教、カトリック、プロテスタント、円仏教)に沿った追悼が順番に行われ、現場に遺族が献花するものでした。参加者は1000人ほどといったところで、メディアは100人弱とその姿が目立ちました。

 現場では「特別法を制定せよ」「惨事を記憶します」というプラカードを手に参加した市民が声を上げていました。

 気温は20度を超え暑さを感じる市民が多かったからか、付近のコンビニで飲み物を求める人が相次ぎました。

 私がちょうど店員と「事故から1年、どう思うか」とインタビューをしていたところ、「あの**を追い出さない限りどうにもならない」という声が後ろから聞こえ、「そうだそうだ」という声が続きました。みなアゴで大統領室のある方向(梨泰院から大統領室までは歩いて15分)を指していました。

 ちなみに、伏せ字の部分はある動物の名前ですが、ここで明かすことはしません。もちろん、追悼集会に来るほどの市民なので、政権への不満が高いのは当然ですが、改めて怒りの深さを感じました。

事故現場前で行われた追悼集会。10月29日、筆者撮影。

事故現場前で行われた追悼集会。10月29日、筆者撮影。

参加者は龍山区の大統領室に向け行進した。10月29日、筆者撮影。

参加者は龍山区の大統領室に向け行進した。10月29日、筆者撮影。

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◎韓国社会(2):待った無しの「年金改革」、政府は意志を示すも中身はまだ見えず

 韓国では年金の将来的な枯渇が大きな改革課題となっています。尹政権は政権の三大改革対象の一つに年金改革を定め、議論を進めています(他の二つは労働と教育)。

 今年2月に保健福祉部傘下の機関が発表した内容によると、このままでは2055年に国民年金が枯渇するということです。年金受領が65歳から始まると考える場合、1990年生まれからは年金を貰えないことになります。

 枯渇しても国家予算により穴埋めすることになっており、年金を貰えない事態にはならないと政府は説明しますが、いずれにせよ大問題であることは確かです。

 対策としては、保険料率(所得の中で保険料が占める割合)の引き上げ、受領年齢の引き上げ、積立されている基金の運営利益の引き上げの3つがあります。

 これを組み合わせていくつかのシナリオを考える形で対策が議論されてきました。

 今年9月の段階で国民年金公団側が発表した内容によると、例えば現行の保険料率9%を段階的に15%に引き上げ、現在65歳の受領年齢を2048年から68歳に引き上げ、さらに基金運営の利益率を現在の4.5%から5.5%に引き上げる場合、2055年の枯渇を免れ、安定して運営できるというものでした。

 他に4つのシナリオがありますが、基本的なラインは上記の部分が最低限となっています。なお、所得代替率(国民年金加入期間の平均所得を年金がカバーする割合)は40%で計算されています。

「青年に確信を与える年金改革。青年たちが出す年金、未来に必ず貰えます」という保健福祉部のウェブバナー。青年から信頼を得ることが年金改革の肝の一つです。保健福祉部HPより引用。

「青年に確信を与える年金改革。青年たちが出す年金、未来に必ず貰えます」という保健福祉部のウェブバナー。青年から信頼を得ることが年金改革の肝の一つです。保健福祉部HPより引用。

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 そんな中、韓国の保健福祉部は27日、『第5次国民年金総合運営計画案』を発表しました。

 しかし既に提示され社会的に周知の事実となっていた上記のような具体的な数値は示されず、肩透かしとなりました。

 同計画案を発表した保健福祉部長官は「多様な意見があるため、政府が具体的な数値を示すよりも公論化の過程を通じ国民と共に作っていくことが望ましい」と述べるにとどまりました。

 来年4月の総選挙を控え「保険料引き上げ」や「受領年齢の引き上げ」といったマイナスイメージが付くことを嫌う政府と与党の懸念が背景にあることは間違いないでしょう。

 そして今日31日、尹大統領は国会で行った来年度政府予算案施政演説の中で、年金改革について「準備を着実に進めてきた」と言及し、その過程で集めた「膨大なデータ」が「年金制度の構造改革のための価値のある資料になる」と自賛しました。

 韓国の国会では今後、来年4月の総選挙までの約7か月の間、年金改革について話し合われることになります。

 尹大統領は先の演説でこの過程にも「積極的に参加し最善を尽くし支援する」としました。

 しかし具体的な数値を出さないまま国会にボールを渡した政府に対する批判をかわすことは容易ではないでしょう。

 今年7月から8月にかけて国民年金公団が行った世論調査では、81.3%が改革の必要性に同意しています。理由の一位は「今後、国民年金の財政が不安定になるため」というものでした。

 歴代政権が先延ばしにしてきた年金改革を尹政権が貫徹できれば、政権にとって大きな成果となるでしょう。しかし支持率低迷が続く中、その突破力が残っているのかについては未知数です。

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