[29号] コラム「日韓関係」を追放するとき、など全8トピック
新年のご挨拶をするには遅い時期となりましたが、今年もよろしくお願いいたします。
今日から毎週金曜日にジャーナル形式のニュースレターをお送りいたします。いわば「本編」にあたり、サポートメンバーの皆さんだけが全文お読みいただけます。
能登半島地震のニュースは、韓国でも連日大きく取り扱われています。主要局のメインニュースでは必ず1つか2つ関連ニュースが報じられ、特派員は現場に張り付いています。公営放送KBSでは特集も組まれています。
韓国でもここ数年、地震が増えていることや、多数の原発を抱えることも関係しているのでしょう。「他人事ではない」という認識が広まっていることを感じます。
読者の皆さんの中にも、本人もしくは親類や知人が被災された方がいらっしゃるかもしれません。ご無事と平穏な日常への復帰が速やかに行われることを願ってやみません。
今号の目次は以下の通りです。
-
巻頭コラム:「日韓関係」を追放するとき
-
ドキュメンタリー紹介:『日本人、オザワ』(韓国KBS)
-
読書体験:박완서『그 많던 싱아는 누가 다 먹었을까』(朴婉緒『あんなにあった酸葉(すいば)をだれがみんな食べたのか』)
-
ショートニュース
-
カルチャー:映画『ビヨンド・ユートピア 脱北』〜脱北を忘れてはならない〜
-
あとがきに代えて:こんな形でやっていきます
◎巻頭コラム:「日韓関係」を追放するとき
ジャーナリストという職業柄、いたるところで日韓関係という単語を使ってきた。ここ数年に限っても、元‘慰安婦’問題、元徴用工問題、レーダー照射、輸出規制、安全保障などを解説する際に、この四文字を乱発してきたと言ってよい。需要と供給はこの業界にもある。日韓関係への分析が日本社会で求められてきた証左でもあるだろう。いっときは「日韓関係はどうですか」というのが、少しでもこの業界に関わる者にとって半ば常套句、天候を尋ねるような挨拶にすらなっていた。良くても悪くても苦笑いがついてまわる点で天候とは異なるかもしれないが。
しかし私は2年くらい前から、こんな日韓関係という単語を明らかに毛嫌いするようになった。今なおその思いは強まるばかりである。なぜだろうかと改めて自問してみると、この単語が過去、小さなものを隠ぺいする大きな風呂敷として機能してきたという答えに突き当たる。日韓という二つの国家を並べ論じることで、その間に存在する、悩み生きる人間の営みを些細なものとして扱ってこなかったかと、ケチをつけたいのである。
昨年3月、日韓関係が改善に向かうという記事が両国のメディアに溢れた。日本企業が元徴用工に支払うべき賠償金を韓国政府傘下の財団が肩代わりするという、韓国側の「英断」が背景にあった。この時、私にも日本の著名ラジオ番組から出演依頼が来た。私は思いきって「日韓関係の改善とはいったい何なのかを問い直したい」と逆提案した。
当時のメールを読み直すと「いま言われている改善はあくまで政府間の関係改善であり、日韓の市民の顔が見えません。今回の裁判の原告たちはいずれも10代前半の時に騙され、家族を脅すなど強制的な力の下で日本に働かざるを得なかった人々です。こういった『個人の話』である、ということを感じられるような言及があれば良いと思います」と送っていた。番組側も真面目に対応してくれ、生放送ではこれはあくまで原告個人と被告企業の話であり、政府が出てくる筋のものではないと伝えることができた。
日韓関係という言葉はそもそも、安全保障と強く結びついた概念である。1965年の日韓国交正常化がその最たるもので、日韓が西側の砦の一つとして機能するという意味合いは当時も今も変わらない。日韓関係の悪化は安全保障の悪化であり、改善はその強化につながる。こう考える場合、日韓関係という言葉には敵味方、戦争、軍備といった概念が内在しており、これを乱用するにしたがい平和や自由という価値が逆に遠ざかってしまうのだ。前述した昨年の尹錫悦氏の決断の背景にも、東アジアで高まる軍事的緊張への対応という側面「のみ」が存在したことは説明するまでもないだろう。
私は新年を迎え、改めて「日韓関係」のような単語は無くなってしまえという思いを強くしている。チリの国民詩人パブロ・ネルーダは身近な題材を温かく詠ったオードという詩を多く残した。その中に『貧乏へのオード』がある。いつでもどこでも庶民について回る貧乏を擬人化し、遠く寒い月に追いやった上で、地球の豊かさを震えながらとくと眺めるがよいとする人間賛歌だが、同じように日韓関係という言葉もアンドロメダの彼方にでもうっちゃってしまいたい。その代わりに、より人の顔が見える日韓市民関係、日韓外交関係、日韓平和関係といった単語を充てて、知らず知らずの内に政府に思考を預けることから離れていきたい。
すでにお気づきかもしれないが「日朝関係」も同様である。朝鮮民主主義人民共和国という国には、独裁者の金正恩氏だけが住んでいるのではないからだ。このままでは北朝鮮の庶民の顔を見失いかねない。本コラムは今年一本目のコラムである。今後、以上のような主張をメディア従事者にも積極的にはたらきかけ、少しずつ「日韓関係」という単語を減らしていくことを新年の誓いの一つとしたい。